はじめに
私たちは、目を閉じたり、逸らしたりすることで、視覚からの情報は調整することができますが、聴覚からの情報は、自然に入ってきてしまい、自分で調整することが出来ません。
何でも入ってきてしまう分、聞くことに注意をむけている人は少ないのではないでしおうか?
「聞く」と「聴く」の違いとは?
「聞く」と「聴く」
二つの言葉の違いは何だと思いますか?
「聞く」は、音が自然に耳に入ること。ただ耳に入る状態。
「聴く」は、意識を向けて、注意深く音に向かうこと。受け取ろうとして向き合うこと。
この「聴く」力は聴力とは関係なく、心の成熟さ、自分や周囲の人と心を込めて真剣に向き合う事からどんどん研ぎ澄まされていきます。
そしてこの「聴く」力を高めていく事で、人生の喜びを増やし、自分や周囲の人たちとの関係も信頼をベースにおいた関係が築く事が出来ます。
この記事では、音の「聴く」力の高め方と、人の話の「聴く力」の高め方に分けて、ご紹介していきます。
今回は、音に対しての「聴く」力の高め方をご紹介します。
自然の中の「情緒ある音」に気づく
昔は、生活の中に、近所の子どものピアノを練習する音、子供が外で遊ぶ大きな声、布団叩き、夕方の「夕焼け小焼け」のチャイム、風鈴など、生活の中に日常を感じさせる音がそこかしこにありました。
現在は、そのどれもが「騒音」とされ、日常に「音」がないのが当たり前の状態になりました。
それは、「聴く」ではなく「聞く」権利の主張で、不快な音を恒常的に聞き続けたくない、という感覚に、社会が寄っていった結果であると思います。静寂の中で生きられる生活は快適でありますが、少し寂しい気もします。
そんな無音の日常の中でも、消せない音があります。
それは自然がもたらす音、生きものが織りなす音です。
例えば「雨の音」。しとしとと静かに降る音、バケツをひっくり返したような豪雨。かつて、作曲家はこの雨の音に耳を澄ませ、ショパンは「雨だれの曲」を作りました。
他にも「水の生み出す表情」に音楽のインスピレーションをつけた作曲家は多くいます。ドビュッシーが「水の反映」、ラヴェルが「水の戯れ」、噴水の水を見てリストは「エステ荘の噴水」を作っています。
水の音を「聞く」のではなく、「聴く」ことが出来るようになれば、このような音楽にも「この音は水の滴りを表現しているんだな」「水の波紋が広がっているんだな」と雨音や水の描き出す音の変化を楽しむことが出来ます。

また、季節と共に自然が運んでくる音もあります。春には鳥が歌い、夏にはセミが鳴き声と、田んぼからはカエルの大合唱が響きます。夏の終わりには、鈴虫やコオロギ、ウマオイが秋の訪れを知らせてくれます。
この虫の声を情緒のある「風流な音」として聴くことが出来るのは、日本人の独特な感性からくるものだと言われています。
これらの音は主張が強くなく、聞こえてはいても「聴こう」としなければ気づかないような種類の音でもあります。

自然が織りなす大合唱。これは命の存在を感じさせる尊い音です。そしてこれも、時代と共に徐々に減りつつあるものです。
前述の「騒音」として社会から消えてきた音と違い、この「命を感じる音」は別の理由から、貴重なものとなっています。
自然に生息する生き物も、体感として年々減っています。私の住んでいる山形も、田舎ではありますがセミの声、虫の声、鳥のさえずりは20年前から比べて当たり前にあるものではなくなった印象があります。
今ある音を¥体全体で「聴き」ながら、次世代にもこの音を遺していきたいものです。
まとめ
「聴く」ことは、耳の良さではありません。
何に気づくか、何にフォーカスするかーーそれは「気づく」力です。
この「気づく」感性を高めると、モノクロとカラー映画くらい、あなたの世界の色彩が変わります。
今、耳を澄ますと何の音が聴こえますか?


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