はじめに
ベートーヴェンの音楽は、「激しさ」と「清らかさ」のいう、相反する美しさが同時に存在しています。
彼にとっては音楽は自分の人生のパッションそのものであり、次第に聴力を失っていく彼の内側に語り掛けてくる音楽は「祈り」のような清らかなものだったのではないかと感じます。
彼の情熱と祈りを受け取る旅に、一緒に出掛けましょう。
ピアノソナタ
ベートーヴェンのピアノソナタでは、傑作といわれるものがたくさんあります(紹介できなかったものでも「テンペスト」「告別」「ワルトシュタイン」など)。
その中でも、今回はベートーヴェンの3大ソナタと言われる「悲壮」「月光」「熱情」をご紹介します。
この3大ソナタは、ベートーヴェンのいわゆる「油が乗った時期」の曲で、彼の若さや情熱が前面に出ています。
それに反して晩年のピアノ曲は、聴力がほとんど失われた中で作曲されており、祈りを感じるような、内省的で静かな世界観で描かれています。
その中から、最後に描かれたピアノソナタ第32番をご紹介します。
ピアノソナタ第8番 Op.13 ハ短調「悲壮」
第1楽章は、重い悲痛な和音の響きから始まり、だんだん曲の疾走感が高まっていき、悲しい響きの中に時折光のような明るい和声が混ざります。悲しさと希望の入り混じった印象で曲が展開していきます。
第2楽章は温かく包み込むような優しい世界が広がります。悲しみの中のつかの間の希望の光の様です。この2楽章は、ベートーヴェンの曲の中で最も美しい曲と評価する人も多いです。
強い激しさよりも規則的な美しさを感じられる第3楽章。悲壮という表題でありながら、曲全体を通して悲しさの中に希望の気配が息づいている、温かみのある曲です。
ピアノソナタ第14番 Op.27-2 嬰ハ短調「月光」
「月光」という通称は、ベートーヴェン自身が付けたものではありません。詩人がこの曲を聴いて「(第1楽章が)湖の月光が照らす小舟のよう」と表現したことから、この名前で呼ばれています。本来のタイトルは「チェンバロまたはピアノのための幻想曲風ソナタ」で、その名の通り、どこか夢の中のような、幻想的な雰囲気を持っています。
第1楽章は、静かな夜の中にゆっくりと月の光が差し込むように始まります。静かで穏やかな響きは、悲しみというより、静けさと深い祈りに満たされたような世界です。
少しいたずら心の感じる、快活な2楽章をはさみ、疾走感のある第3楽章で一気に駆け抜けます。激しさの中にも切なさがあり、ベートーヴェンの心の揺れがそのままおとになったような終楽章です。
静けさから情熱へ。陰影の美しい曲です。
ピアノソナタ第23番 Op.57 へ短調「熱情」
情熱や激しさにあふれた曲であり、ベートーヴェンの激しさや情熱を象徴的に表した曲です。
静かで荘厳な導入が、煌びやかに華やかに展開していく第1楽章。
清らかな、光が差し込むような第2楽章の終わりは、次の楽章につながる不協和音の音の響きで不穏なものを感じさせ、叩きつけるような激しい短調の和音の連打から第3楽章に突入します。
そこから曲は激情と疾走感のままに最後まで突き抜けます。心を鷲掴みにする新たな旋律が、畳みかけるように出てきます。
聴き終わった後は、ベートーヴェンのエネルギーに塊をぶつけられたような感覚に、放心状態になるでしょう。
ピアノソナタ32番 Op.111 ハ短調
ベートーヴェンのピアノソナタの最期の曲になります。この頃には軟調もかなり進行し、ほとんど音のない世界であったといいます。
第1楽章では、交響曲「運命」を感じさせるような、鍵盤を叩きつけるような重く苦悩に満ちた旋律の展開、第2楽章では、終楽章らしい激しさがありながらも、天界からの声か?と思わせるほどの高音域の清らかな旋律が続き、曲の幕を閉じます。
この曲はソナタ形式には珍しく、2楽章構成になっています。ベートーヴェンに「なぜ2楽章しかないのか?」と弟子が質問を嘆かれたところ
「時間がなかったから」
「第2楽章が長かったからこれでいい」
という返答であったとの事。曲の形式よりも楽曲の調和を重んじたベートーヴェンらしいエピソードです。
しかし、2楽章形式で構成されたこのピアノソナタがこの清らかな祈りの音で絞められたことは、彼の孤独や苦悩とともに、精神性の昇華が感じられて、32曲のピアノソナタを締めくくるのにふさわしい1曲なのでは?と感じます。

ピアノ協奏曲
ピアノ協奏曲第5番 Op.73 変ホ長調「皇帝」
威風堂々とした伸びやかな曲です。ベートーヴェンは生涯において多くの名曲を生み出しましたが、その中でも1804年から1814年の10年間は、生涯にわたる作品の半数に匹敵するほどの数と完成度を誇る傑作を次々と生み出しました。この時期をフランスの作家、ロマン・ロランによって「傑作の森」と名付けられました。ベートーヴェンの作曲家としての自信と前向きなエネルギーが曲全体から伝わってきます。
タイトルの「皇帝」は、ベートーヴェンがつけたタイトルではなく、後に他の人物によって、曲から受けた雰囲気からつけられました。
第1楽章の冒頭では、ピアノがファンファーレのように華やかに登場します。続く部分では、ベートーヴェンらしい情熱と緊張感のある展開が続きます。
この曲の特徴は、ベートーヴェンらしい「苦悩」や「悲痛」な響きやがほとんどなく、モーツァルトを感じるような朗らかさ、快活さが曲の全体を包んでいるところです。
この時期、ベートーヴェンの暮らすウィーンにナポレオン率いるフランス軍に攻め込み、略奪や暴行を行ったといいます。市民が爆撃に怯えている中、皇帝やパトロンが戦火を避けて疎開していました。この毎日の爆音に曝される環境下で、もともと難聴だったベートーヴェンの耳は、ほぼ全く聴こえなくなりました。
ベートーヴェンは偉大な作曲家でありながら、自分の作曲した曲を自分で演奏する偉大なピアニストでもありました。しかし耳が全く聴こえなくなったことで、この「皇帝」の初演のピアニストとしてステージに立つことは出来ませんでした。

作曲家としての黄金期と耳が完全に閉じてしまう、彼自身の孤独や絶望を思うとはかり知れません。
弦楽四重奏曲
弦楽四重奏曲第15番 Op.132 イ短調
50代前半に作曲した曲で、第3楽章には「病から癒えたものの神への感謝の聖歌」という表題がついています。
ベートーヴェン自身が腸カタルを悪化させてしまい、病床に伏せますが、その後回復して作曲に戻る事が出来ました。第5楽章で構成されたこの曲は、その時の病気から快復した心情を書き上げたものと言われています。
注目したいのはベートーヴェンが表題をつけた第3楽章です。伸びやかで、神への祈りの感謝の気持ちにあふれた朗らかな曲調です。祈りを感じるのは、リディア旋法というグレゴリオ聖歌にも用いられた教会音楽の響きになる独特な音階進行を用いたためです。
第5楽章の、本来交響曲第9番の終楽章にとスケッチしていた哀愁と切なさの入り混じった音の絡まりも、心を締め付けられるような感覚を覚えます。
この曲は、「ベートーヴェン最高傑作」を越えて、「人類最高傑作」とまで評されている曲でもあります。

ヴァイオリン ソナタ
ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調 「クロイツェル」
ピアノ伴奏でのヴァイオリン曲ですが、ヴァイオリンとピアノ対等にぶつかり合うような迫力が魅力で、協奏曲のような様相をしています。
激しさと切なさ、ピアノとヴァイオリンの熱く会話するような音の絡まりが胸に訴えてきます。二つの楽器で奏でられているとは思えないような音の広がり、重量感があります。
当時のパリの最高のヴァイオリニストであったロドルフ・クロイツェルに献呈されたため、この愛称がつけられていますが、当のクロイツェル本人はこの曲に興味を持たず、1度も演奏しなかったと伝えられています。
その後、文豪トルストイや後の作曲家が「クロイツェル・ソナタ」という名前の、この曲からインスピレーションを受けて制作した作品が遺っています。
音楽そのものの力強さと緊張感は、まさにベートーヴェンらしさが光る傑作です。

交響曲
交響曲第9番 Op.125 ニ短調
「第九」として親しまれている、ベートーヴェン最後の交響曲です。
22歳の時にシラーの詩「歓喜に寄す」に出会い、「いつかこの詩に曲をつけたい」と思ったのがきっかけでした。
そこから構想に30年、実際に筆を執ってから完成まで9年―ベートーヴェンの人生のすべてが注ぎ込まれた大作です。
全体で約1時間に及ぶ壮大な構成に加え、第4楽章に合唱を取り入れた点も画期的でした。それはベートーヴェンが音楽への情熱を全部ぶつけて書いた時に生まれた、必然的な革新だったのかもしれません。
第1楽章と第2楽章の力強い躍動、第3楽章の静かな祈り、そして第4楽章「歓喜の歌」にあふれる希望とエネルギー。
それぞれの楽章が、ベートーヴェンという人物の生き方、信念をそのまま映し出しているようです。
この曲のすばらしさに加えて特筆すべきは、構想には時間はかけていますが、作曲に取り掛かった時にはもうほぼ耳が聴こえていなかったという事です。このオーケストラという複雑な構成や音の重なり、そこに合唱も加えるという複雑な音のグラデーションを、頭の中の「音」だけを頼りに書き上げた事実は、まさに人間の可能性を越えた奇跡と言えるでしょう。

日本では、クラシック愛好家だけではなく幅広い世代にむけて「第九は年末の風物詩」として定着しています。
合唱パートがあることで、一般市民の私たちも「歌う事で参加できる音楽」として広まりました。「歓喜の歌」の希望に満ちた響きが、1年を締めくくるにふさわしい明るさをもたらしてくれるため、全国各地で年末に公演が行われるようになりました。
年の瀬の夜、ぜひ一度、コンサートホールで「歓喜の歌」に包まれてみてください。
まとめ
ベートーヴェンが身を削るようにして遺した音楽は、時を越えて私たちの心を癒し、励ましてくれるでしょう。


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