はじめに
情景の浮かぶような歌曲――それは牧歌的な「美しい水車小屋の娘」から、背後から迫りくる恐怖「魔王」まで、シューベルトは表現力に深みがあり、豊かな表情を感じる音楽家です。
彼は、偉大なる音楽家にある、よく言えば天才で繊細、悪く言えば奇人変人で気難しい印象とは違い、朴訥であり控えめで、多くの友人に愛された人物でした。生前に正当に評価されることはなかったものの、人に愛される才能は多分に発揮された生涯であったと感じます。
たった31年で夭逝してしまった、儚くも愛おしい生涯をご紹介していきます。

幼少期から青年期
シューベルトは、オーストリアのウィーン郊外のリヒテンタールで誕生します。父は、教師をしながらもアマチュア音楽家としてチェロを、兄2人ヴァイオリンを弾く音楽に囲まれた環境で育ちます。
7歳の時には、すでに父では教えきれないほどの才能を発揮していたシューベルト。そこで父は、彼を11歳で宮廷礼拝堂少年合唱団に預けます。
合唱団の中でもその才能はすぐに一目置かれ、特別に国が運営する寄宿学校(コンヴィクト)にも奨学金で入れてもらえます。日中は学校で学び、礼拝では合唱団として歌い、空いた時間には礼拝堂の隣にある楽器倉庫のピアノを自由に練習出来るという、彼のような貧しい階級では夢のような環境で過ごしました。
コンヴィクト時代に出会ったのが、宮廷学長のサリエリです。
名前に聞き覚えのある方もいるかもしれません。
映画「アマデウス」で、モーツァルトの才能に嫉妬する人物として描かれたあの人物です。実際は、あの描き方は完全にフィクションであり、実際は後進育成に情熱を注いだ人格者でした.
サリエリは、シューベルトの才能を気に入り、作曲を無償で教えてくれた人物で、のちの作品にも深い影響を残しました。
17歳までをこのコンヴィクトで過ごしました。
彼の才能の光を掬い上げたのは、周りの友人の善意も大きくありました。
貧しい彼に多くの友人が、五線紙をプレゼントしたり、励ましの声をかけ続けました。

作曲活動の始まり
コンヴィクト時代に、モーツァルトの作品に出会い、衝撃を受けます。
サリエリの指導の下、わずか13歳の時に、四手ピアノによる「幻想曲 ト短調」という、32ページにも及ぶ大作を書き上げました。四手ピアノとは、2人のピアノ連弾の事です。
14歳から16歳の時期には、歌曲、ピアノ曲、室内楽、交響曲と幅広いジャンルで精力的に作曲し、17歳の時に「糸を紡ぐグレートヒェン」という、シューベルトの中でも傑作と言われる歌曲を完成させます。
コンヴィクト卒業時には、作曲家としての多彩な方向への才能、表現力はすでに確立されていました。
彼の作曲方法は、絞り出すというより、スピーディーで多作。モーツァルトのような、内から湧き上がる泉のように、ただただ溢れ出るものだったのかもしれません。
彼の才能に魅了され、師や友人がこぞって彼を支えたのも、そのような魅力があったからでは、とも感じます。

音楽家ではなく教師に
コンヴィクトを去った後、音楽家ではなく父の学校の教師として就職します。
明日のパンを得るためです。
教師として働く日々の中でも作曲への情熱の灯は消えず、誰にも届かない傑作が作られ続けていきます。
そんな彼の才能を、惜しむ友人がいました。詩人ヨハン・マイアホーファーは、ひたすらにシューベルトを支え、法律学生のフランツ・フォン・ショーバーは「教師を辞めて平穏に芸術を追求しないか?」と説得します。
シューベルトは、その友の助言に乗り、父に教師を辞めると告げ、ショーバーの下で音楽家としての生活をスタートさせます。一日中作曲して、一つ完成させたらまた次を始める、と音楽だけに集中した日常を得ることが出来ました。
夜会「シューベルティアーデ」
シューベルトが生み出す曲は、どれもドラマティックで美しいものでしたが、当時は音楽家としては、明日のパンに替えることが出来ない状態でした。
しかし、彼のその金にはならない作曲活動を支えようという動きは、ホーファーから始まり、周りの友人にも広がっていきました。
強い情熱と志を持った若い歌手が、ウィーンのサロンで彼の歌曲を歌ったり、アンゼルムとヨーゼフに兄弟は、彼に奉仕し、崇めていました。
その援助者の一人、ゾンライトナー家は裕福な商人であり、長男がシューベルトと縁があって自宅を自由に使わせていましたが、それはまもなく「シューベルティアーデ」と言われる夜会となり、シューベルトを称え、皆がシューベルトに自分が出来ることを持ち寄る会へとなっていきました。
あるものは宿を。あるものは食料を。
裕福なものは楽譜の代金を支払い、貧しいものは、自分の食料の半分や、何か貢献できる活動をシューベルトに差し出しました。
この会で新しいメンバーが増えるたびに「彼が出来る事は何か?」という質問がかわされました。
貧しさ故、公演活動など、世に知らしめるアクションがとれなかったのが、彼が生涯貧しく、生前は無名であった理由の一つであると思います。
しかし彼の才能に触れた人は皆、彼に惹かれ、彼を応援する行動を取っていたようです。

病と恋
恋の歌も多く遺している、シューベルトの恋愛事情はどのようなものだったのでしょうか?
シューベルトは、あまり女性に好まれる外見ではなかったようで、恋愛経験は乏しかったようです。そんな数少ない女性経験の中で、25歳には梅毒に感染してしまい、これが彼を更に恋に臆病にさせ、人生を憂鬱なものにしてしまいました。
当時は梅毒の効果的な治療法もなく、逆に「水銀療法」という、水銀を体に塗ったり取り込む治療が効果があると信じられてきました。このことで、更に「水銀中毒」を引き起こすという悪循環が生まれていました。

愛された才能と人柄
シューベルトの人生を辿って感じる事は、天才特有の孤独さがなく、彼の人生には常に師や友人、支援者が見返りを求めずに存在し続けました。
シューベルトという、自分では発光できない原石を、人生が閉じるまで光り続けられるように、原石が磨かれ続ける事を望むように。
彼は、朴訥で優しい人柄ではありましたが、塚しい友人には短気になったり癇癪を起すこともあったようです。
それでも離れてゆく友人はおらず、逆に支援者は増え続けたことは、その素直さも魅力となっていたのではと感じます。

死と評価
シューベルトは、31歳という若さで亡くなりました。
一般的には25歳の時に感染した梅毒の進行、またその治療で摂取し続けていた水銀中毒が原因と言われていますが、死の直前に食べた魚料理が原因の腸チフスという説も残っています。
友人の援助もあり、短い生涯ながらも約1000曲という膨大な数の曲を遺しました。
生前は、その作品たちは正当な評価を受ける事はありませんでしたが、彼の死後に友人たちが、その遺された膨大な数の楽譜の整理や出版に奔走し、後に続くシューマン、リスト、ブラームスといった著名な音楽家たちが、彼の作品を高く評価して世に広め、音楽史の輝かしい1ページを刻む、今の評価が確立されていきました。
音楽史の天才に評価される天才。
この時代の人生の交錯は、今の時代から見てもとても胸が熱くなります。
ベートーヴェンもまた、自分の時代を継ぐシューベルトとの出会いを、言葉に遺しています。
「この若者には神の火花が宿っている」
「彼こそが自分の後を継ぐものだ」

この火花が、周囲を惹きつけ、魅了した根源であったのかもしれません。
自分の才能を高く評価し、光栄な言葉を残してくれたベートーヴェンを、対面は叶わなかったもののシューベルトは生涯をかけて敬愛し続けました。死期を悟った時「ベートーヴェンの墓の隣に入れてほしい」という言葉を遺してこの世を去りました。
今もウィーン中央墓地の第32A区に、ふたりは静かに並んで眠っています。
まとめ
短いながらも、友と音楽に愛されて駆け抜けた生涯。
次回は、彼の作品の魅力へとせまっていきたいと思います。
出典:Wikimedia Commons(Public Domain)


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