はじめに
シューマンの人生は、愛と苦悩に彩られた半生でもありました。その愛と苦悩を中心に、彼の生涯をご紹介します。

幼少期と両親の支え
シューマンの両親は、父アウグストが出版業、母ヨハンナが医師の娘という、音楽とは違う関わりのない家庭で生まれましたが、シューマンの父は事業に成功しており裕福で、息子の素養を伸ばすのにはお金を惜しまない、愛情深い人物でした。
早くから音楽の素養を見せたシューマンに、父は7歳の時にベートーヴェンの交響曲を、9歳の時にモーツァルトのオペラ「魔笛」の公演に連れていき、幼いシューマンに鮮烈な音楽体験を与えています。幼少期に、二人の天才の音楽に触れる体験がシューマンを動かしたのでしょう。
市民が持つには高価であったピアノも買い与え、シューマンのまっすぐに伸びようとしていく才能の息吹に、父は適切な愛情、栄養、光、道筋を与えました。
直接的指導ではないものの、父のサポートもあり、文学を愛するピアニスト志望の青年として成長していきます。

シューマンは、11歳頃から作曲を始めていたという話が伝えられています。家族の前で、即興的に幻想曲や変奏曲を作って聞かせていましたが、即興的な作曲だったため、楽譜としては遺っていません。
父アウグストが、音楽家としての最大限の援助を惜しまなかったのに対して、母ヨハンナは、シューマンに対して「パンにならない芸術」(食べていけない職業)の道ではなく、法律の道に進むことを望んでいました。しかし、シューマンが師事したピアノの師、フリードリヒ・ヴィークが、弟子としてシューマンのピアノの指導を受諾した際、「3年以内に(当時活躍していた)モシェレスやフレンメル以上のピアニストにする。(彼の才能を持って)無理やり法律家にするのは愚かだ」と返答があり、母もシューマンの音楽への才能を認めざる負えない状況になり、ようやく音楽家になる事を認めたという話が遺っています。
彼の音楽に文学を感じるのは、彼が音楽以外の道(法律家)も嘱望され、文学や詩を深く愛していたというところから来るのかもしれません。
クララとの出会い
ピアノの師、フリードリヒ・ヴィーク。その娘こそクララでした。出会いはシューマンが17歳、クララが9歳。はじめは生徒と恩師の娘として、兄妹のような関係でしたが、成長と共にシューマンのクララへの想いは、恋愛感情へと変化していきます。クララは美しく、音楽的な才能も幼少期からずば抜けており、雲の上の存在。
お互いに惹かれあい、2人は文通によって愛を深めていきます。
ロマンティックで情熱的なシューマンの手紙は、クララにとっても大きな喜びであったのでしょう。
しかし、彼の恋の大きな障害になったのは、恩師でありクララの父であったフリードリヒ・ヴィークの猛反対でした。
結婚反対の理由は、当時のクララは「天才少女」、一方のシューマンは「無名の音楽家」と、2人の「格が違う」事。そしてクララ以前に別の女性と結婚寸前からの破断を起こした経緯があり、「人としても信用できない」と感じていたからであったようです。
また、彼のピアノの師として人となりを間近で見ていた時に、彼の「精神的な脆さ」を感じ取っていたのかもしれません。
妻クララの人物像
恩師フリードリヒ・ヴィークに結婚を大反対されたほどのクララ・ヴィーク(後のクララ・シューマン)とはどのような人物だったのでしょうか?
音楽教育者の父フリードリヒ・ヴィークと、歌手でピアノ教師であった母マリアンヌのもとに生まれ、父ヴィークは、クララの天賦の才に気づき、神童にすべく、自らの指導で早くからクララへの音楽教育を施します。
ヴィークは気性が荒く、クララが5歳の時に両親は離婚。
激しい性格のヴィークのレッスンは、能力は伸ばせるものでありながらも非常に厳しいものでした。
クララは、9歳で「天才少女」としてピアニストとしてデビュー。文豪ゲーテからもその天賦の才を絶賛されます。
ピアニストとしての功績は、18歳でウィーン皇帝の前で演奏し当時としては極めて珍しい女性ピアニストとして「オーストリア帝王室内楽奏者」の称号を授けられました。
当時は、作曲家が自分の曲を演奏をするのが一般的でしたが、彼女は先駆的に職業ピアニストとして活躍しました。今日の楽譜を見ないで暗譜で演奏するスタイルの元祖と言われています。
作曲家としても美しい抒情的な作品を遺しています。幼いころからピアニストとして活躍をしながら作曲も行い、傑作と言われている「ピアノ協奏曲 イ短調」は、14歳で作曲を始め、16歳で自ら初演した作品です。
他にも、ピアノ曲、歌曲、室内楽を作曲しています。
クララは、シューマンと結婚したのちに8人の子宝に恵まれました。
精神状態に大きな波のある夫を献身的に支えながら、同時に作曲活動のサポートもしています。
自身もピアニストとしての活動を軸に置きながらも美しい曲を幅広いジャンルで作曲をしました。驚くほどのバイタリティです。
生きていた当時は夫のロベルト・シューマンより名声のあった人物であったようです。

2019年の「生誕200年」を機に、クララ・シューマンの作品は再び注目を集め、多くのピアニストが彼女の曲を演目に取り上げるようになっています。
「シューマンの妻」という、本人ではない呼称での評価で終わるのはとてももったいないほどの人物であると思います。
この記事をきっかけに、クララ・シューマンの人物や作品にも興味を持ってもらえたら嬉しいです。
曲はクララへの恋文
シューマンの作曲家としてのスタートは始まりピアノ曲から始まり、歌曲へと移っていきました。
ピアノ曲はクララへの想いがありながらも結婚がもう反対されている時期、歌曲は裁判で結婚んが許され、クララとの結婚生活が始まった時期の作品となります。
ピアノ曲の背景にもクララへの溢れる愛情。歌曲に作曲の形を写したのも、ロマンティックな詩に音楽を乗せてクララへ思いを届けたいという一途な思いからでした。ピアノ曲は子どもの情景など、愛以外を描いたものもありましたが、シューマンはすべての曲に作品番号をつけていなかったり、うつの状態の時は断片的な作曲に留まったりしていたので正確な作曲数ははっきりしていないのですが、ピアノ曲は50曲前後。歌曲は300曲ほど書かれています。
それほどまでに愛を伝えたい想いが尽きなかったのでしょう。

躁うつ病と歩んだ人生
シューマンは、精神病院で亡くなったという話が有名ですが、躁うつ病を抱えていたという説が一般的です。彼の創作スタイルを見ていると、躁うつ病の気質が良い方にも悪い方にも作用していたようです。
躁うつ病の片鱗は青年期から始まっていたようです。
彼の躁状態の時は、創作の泉が留まることを知らず、爆発的に作曲をこなしました。全盛期には、1年ごとに新しいジャンルに挑戦し、その全てのジャンルをロマンティックなシューマンの色で描き、傑作を遺しています。
躁状態の時の自分の万能感を体感したことがあるからこそ、うつ状態で作品が内側から生まれなくなった時はもがき苦しみ大いに葛藤したようです。
状態が悪い時は希死念慮にさいなまれ、ライン川に投身自殺をするほどでした。これは未遂に終わり、そこから自ら希望し、精神療養院(現在の精神病院)に入院します。
晩年のシューマンは、幻覚、幻聴にも悩まされ、躁うつ病とはまた別の精神疾患にもかかっていたのではないかと言われています。
本人の心の安静のために療養院では、音楽へ触れる事の制限、クララと面会する事の制限を与えました。それでも音楽を求め、「天使が話してくれた」とスケッチで曲の断片を書いていたようです。ただ、もう正気ではなくなった彼に、形の整った作曲を行う事は出来ず、数枚のメモ、断片にとどまっています。

死後の評価
そして、46歳に精神療養院で生涯を閉じました。
彼の作品は、限られた愛好家には支持されていましたが、今日のように、音楽史の重要な1ページとして評価されたのは彼が亡くなってからでした。
シューマンを敬愛していたブラームスや、同時代のリストなどの著名な音楽家たちが、演奏などを通して彼の作品の重要性を伝え続けました。それがじわじわと音楽界全体に浸透していったのです。

不器用でありながら、音楽を愛し、音楽にも愛され、人を愛し、人にも愛された生涯であったと感じます。
まとめ
人生の光と影のコントラストが大きかったシューマン。そんな彼が生み出した音楽は私たちの心に強く訴えかけてきます。次の記事では、彼の音楽の時代背景と、光と影を更に深堀していきます。
出典:Wikimedia Commons(Public Domain)


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