シューマン【音楽の傾向と光と影】

クラシック音楽

はじめに

シューマンの音楽の魅力は、心にすっと入ってくるロマンティックな心の葛藤。表現は詩を感じさせるように文学的です。

この記事では、彼の曲の良さを、より一層知れるエピソードをご紹介します。

ピアニストとしての夢と挫折

シューマンは若いころ、クララの父ヴィークに師事し、ピアニストを志していました。
しかし、ピアニストとしての道は、右手の故障により断念しています。

この右手の故障については、指の独立性を高める器具を自作して、その訓練器具で右手を壊してしまった、という説が長年信じられていました。

しかしこの説は、近年になって疑問視されています。

・ピアノの演奏時にのみ、筋肉が痙攣して弾けなくなってしまう職業性ジストニアで、ピアノの道を断念したのではないか?
梅毒にかかり、その初期症状で弾けなくなったのでは?

など、いくつもの説があり、どれが真実なのかはわかりません。

しかし、彼の曲を聴いていると、これほどピアノへの深い愛情を持っていながら、志半ばでピアニストのキャリアを諦めなくてはいけなかった事実が、彼が長年精神の病で苦しき続ける原因の1つではあったのでは?と思うのです。

ピアニストを諦め、作曲家としてスタート

7歳になる前から作曲はしていましたが、シューマンが本格的に作曲家としてスタートしたのは、ピアニストとしてのキャリアを諦めた後からでした。

彼はすべてのジャンルを同じ配分で作曲するのではなく、同じジャンルを1時期に一気に作曲していくスタイルでした。

ピアノ曲の時代(1830年代)
ピアニストになる事を断念してからクララとはまだ結婚する前の20代。この時期は「ピアノの年」と呼ばれ、小曲の「子供の情景」から大曲「クライスレリアーナ」「謝肉祭」など、ピアノ独奏曲を一気に書き上げました。
クララとの結婚を反対されながらも、心の中はクララへの恋に燃え上がっていた時期でもあります。

歌曲の年(1840年)
次は、クララと結婚した1840年。この年が「歌曲の年」です。「リーダークライス」「詩人の恋」など、ロマンティックな140曲もの歌曲を、ほぼこの1年間だけで一気に作曲しました
長年の障害を乗り越えてクララと結婚した喜びと高揚感が、爆発的な作曲活動に結びついたようです。

交響曲の年(’1841年)
1841年は「交響曲の年」です。シューマンは生涯で5曲の交響曲を作曲していますが、この年、シューマンは『交響曲第1番「春」』を完成させ、さらに後に『交響曲第4番』となる初稿も書き上げました。

室内楽の年(1842年)
1842年には室内楽に集中して取り組み、多くの傑作を生みだしました。
制作スピードは非常に早く、数日で書き上げる曲もあったようです。

このような作曲スタイルは、音楽的な才能はもちろんですが、彼の精神的な病が大きく関係しているのではと言われています。

彼が精神疾患を患っていて、ライン川に投身自殺未遂をしたり、精神病院に入院したまま46歳の若さで亡くなった話が有名ですが、彼の症状に躁うつ病があったのではと言われています。

躁状態の時はアイディアが尽きずに寝食を忘れて作曲に没頭し、うつ状態になると作曲はおろか、希死念慮で何も出来なくなる。
彼はそのサイクルの中で、躁状態の時に一気に同じジャンルの曲を書き上げたのでは?と言われています。

しかし彼の生み出す曲には狂気の色はなく、ただただ詩的で美しい世界が広がっています。

同じ時代を生きた作曲家

シューマンは、ロマン派の音楽を継承し、他の同時代の作曲家と共に、ロマン派を発展させていきました
ロマン派とは、古典派のような厳格な形式から解放され、自由な発想、悲しみや喜び、不安などの人間の内面にある感情をより豊かに表現することが尊重されました。
ロマン派とは、特定の一時代に限定されるわけではなく、「内面の感情表現を重視する」という表現傾向を共有する作曲家を指しています。
そのため、古くはベートーヴェンから、近代に近いラフマニノフまで、多くの作曲家がロマン派の系譜に位置づけられています。
その中でもこの時代に共に生きた作曲家は多く、メンデルスゾーンショパンリストはほぼ同時期に活躍し、お互いに影響を与え合っていました。

また、シューマンは作曲だけではなく音楽評論家としても活動しており、若き日のブラームスの才能をシューマンが見出し、「若い鷹」と呼び、世に知らしめました
シューマンとブラームスは、生涯を通じて「恩師と才能の支持者」として良好な関係を築き、シューマンが亡くなった後も、ブラームスはシューマンとクララへの深い尊敬から、クララへ金銭の援助をしたり、子どもたちとの親交も持ち続けました。

精神療養院での最期

シューマンは自らコントロールしきれない躁鬱の症状と長年葛藤しながらも作曲活動を続けていましたが、43歳の時にライン川への投身自殺未遂をした後、自ら希望して精神療養院(現在の精神病院)に入院しました。

当時の精神療養院は、薬物療法などの治療が確立されていませんっでした。だからといって虐待にさらされるような環境ではなく、シューマンの過ごした精神病院は、のどかな田園地帯の小規模な施設で、修道院のような雰囲気でした。

「優しい保護」「社会から隔離」

シューマンの晩年はそのような環境下であったようです。心の安静のためにと、妻クララとの面会も制限され、音楽も排除された環境でした。そんんあ環境下でも音楽への創作意欲は途絶えず、幻覚や幻聴もあった彼の精神には天使が語り掛けてきて、「主題と変奏(幽霊変奏曲)」などの作品を手がけましたが、作曲活動はメモや断片にとどまっており、完成することはありませんでした。

ライン川投身自殺未遂からの2年半後、46歳でシューマンは正気に戻ることなく、精神療養院で息を引き取りました

まとめ

彼の、詩的な美しさを感じさせる音楽は、クララという一人の人への恋文であり、崩れそうなほどに繊細だった心の副産物であったように思います。
次回の記事では、彼のジャンル別のおすすめ曲をご紹介します。

コメント

タイトルとURLをコピーしました